この世には二種類の子供が存在するらしい。
僕の場合は間違い無く前者であろう。
やる事なす事が、悉く周囲を不愉快にしている悪循環の塊である。
先日も事務所でクレーム処理をしていたのだが、訳の分からない話をしだす客にキレる寸前であった。
電話を殴るように切り、両手で机を叩いてみてもその怒りは収まらず、挙句に机の下にあった棚を蹴飛ばして壊してしまった始末である。
周囲にいる事務員的女性陣が不快な思いをした事は、僕にとっては全く関係無い話である。
何故に選ばれし者である 僕 がこんな思いをしなければならないのであろうか。
相対的に物事を考えてみよう。
僕がキレて物に当り散らすと周囲が不快な気持ちになる。
周囲の不快度が僕の不快度を上回れば、その空間において僕は相対的に“快”なのである。
絶対的には不快でも、相対的に“快”であれば僕は満足である。
そして現場から帰った同僚に、この棚を蹴り壊した話をする。
勿論、聞かれてもいないのに、である。
現場から疲れて帰ってきた彼に「お疲れ様。」の労いの言葉は当然存在しない。
彼は僕の話を聞く義務があり、僕には彼を労う義務なんて無い。
一日中こんなに一生懸命、客からのクレームを一身に受け疲れ果てているのは、むしろ僕である。
疲れ切った彼に向かって話す自慢話の瞬間こそが、僕の疲れが癒される瞬間である。
自作自演の自己陶酔に浸った、所謂 愚痴 を聞かせれば、相対的には“快”になるのである。
当然のことながら聞いている方は不快であろうが、それは僕の汲み得ない部分であり僕自身は“悦”となるので話は自己完結となるのである。
選ばれし者である僕が“悦”でい続ける事は当然の権利である。
それでも不満の日々は続くのである。
僕の場合は間違い無く前者であろう。
やる事なす事が、悉く周囲を不愉快にしている悪循環の塊である。
先日も事務所でクレーム処理をしていたのだが、訳の分からない話をしだす客にキレる寸前であった。
電話を殴るように切り、両手で机を叩いてみてもその怒りは収まらず、挙句に机の下にあった棚を蹴飛ばして壊してしまった始末である。
周囲にいる事務員的女性陣が不快な思いをした事は、僕にとっては全く関係無い話である。
何故に選ばれし者である 僕 がこんな思いをしなければならないのであろうか。
相対的に物事を考えてみよう。
僕がキレて物に当り散らすと周囲が不快な気持ちになる。
周囲の不快度が僕の不快度を上回れば、その空間において僕は相対的に“快”なのである。
絶対的には不快でも、相対的に“快”であれば僕は満足である。
そして現場から帰った同僚に、この棚を蹴り壊した話をする。
勿論、聞かれてもいないのに、である。
現場から疲れて帰ってきた彼に「お疲れ様。」の労いの言葉は当然存在しない。
彼は僕の話を聞く義務があり、僕には彼を労う義務なんて無い。
一日中こんなに一生懸命、客からのクレームを一身に受け疲れ果てているのは、むしろ僕である。
疲れ切った彼に向かって話す自慢話の瞬間こそが、僕の疲れが癒される瞬間である。
自作自演の自己陶酔に浸った、所謂 愚痴 を聞かせれば、相対的には“快”になるのである。
当然のことながら聞いている方は不快であろうが、それは僕の汲み得ない部分であり僕自身は“悦”となるので話は自己完結となるのである。
選ばれし者である僕が“悦”でい続ける事は当然の権利である。
それでも不満の日々は続くのである。
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by bob-chan2
| 2007-10-10 10:10